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現代日本人の団塊の世代の病巣


・・・2004年1月17日、亡くなった生徒のお葬式に校長は出られた。なんとか最後まで弔辞を読んだ。少年の顔を拝んだ。両親の顔も観られた。
 その夜、亡くなった生徒の保護者、学校の生徒、市教委関係者、家族などにあてた十通ほどの遺書を書いた後のこと。翌日、奥さんが発見。

 58歳、目まぐるしく変り、経済が発展し、人々がバラバラに崩壊していく日本を見てきた団塊の世代。
 思想も宗教も理想も見えなくなってしまった年代。

ただ日本の経済発展に家族のため、属する組織のためと、邁進してこられた世代。

 記事やニュースを追っていくとなんとなく私には自殺する心理ががわかる気がした。

 一見するとサムライ的責任の取り方のようだが、少し違うのではないか。人生に行き詰まったという感じがもっとも近いのではないだろうか。もちろん亡くなられた少年や少年のご両親の顔を葬式で観て、背負いきれない責任として重圧を感じたことが要因なのだが。
 それだけでは自殺に踏み切る心の本質的な理由にならない。

 医師にも責任感の強い人が多いが、ミスが一因となって患者を殺してしまうことがあるが自殺する医者はあまり聞いたことが無い。
 消防署職員にも火災現場で部下が殉職することがあるが、自らの判断ミスがその事故の一因となっていたとしても、悔やんだり辞職することはあっても自殺はあまり聞いたことが無い。

 上の2例に比べてもこの事故には校長の責任はほとんど無かったと思う。むしろ用具を管理する用務担当者や、毎日のように用具を使用する体育教師や、直接のクラス担任の方が、風の強い日にゴールが倒れる可能性があることを身近に想像でき、生徒に注意を促すことが出来た立場にあったかもしれない。
 だとしても体育教師もクラス担任も少年の死というものに対して、直接の責任があるとは思えない。これは事故だ。教師たちの査定、評価にマイナスがつき出世が遅れることがあるというのが通例で、むしろこの体験、この事故から教訓を得、少年の死を無駄にしないという反省と再発防止がとられるところだ。

 校長の責任は学校に起こった事一切合切の監督責任だが、それは、自ら負うべきものというよりも、上部組織である教育委員会や日本的組織理論として世間から問われるというものであろう。

 私はこと、この団塊の世代の精神が、この時代、本当に危うく脆くなっていると考えている。ベトナム戦争と反戦運動、一連の学生運動が盛んだった時代に高校や大学時代を送り、その後、そのムーブメントは完全に否定され冷笑される。
 次に否応無く経済的な理由もあって就職という、脱学生、大人社会に自分を預けるという価値観の一変機会があり、組織の中で一兵卒として、個を埋没させながらそれを否定し、自らを組織社会に、のみ込ませてきた。

 一方、家庭では、家族を経済的に背負ってきたが、家長としての存在は薄く、帰るべき家庭にも自己表現の片は無きに等しい状態だった。

 物質が身の回りを覆う経済的満足感にのみ心を奪われ、哲学的な幸福を考えたり、自己実現といった個の表現がやりにくく、仕事に追われ、精神的安堵感満足感をうる時間的余裕があまりにも少なかった。

 そこへ、バブル経済の無節操さと、その崩壊で過去の実績の崩壊と物質社会の価値観の否定が一斉にやってきた。いったい何をしてきたのかなぁと。

 定年退職してから、悠悠自適の生活を送り、やっと自分の好きなことをするなど、これまでしたことの無い生活に入ったら、いざそのときは、自身が人生の燃えカスのように思えてしまうのではないか。

 当てはまらない人はさいわい。しかし、現代日本の団塊の世代の人たちにおいて思い当たる人の多いければ、そこが危うい。好きなことを好きなようにやってきた人生には大きな挫折と終焉がやってきても、また立ち上がって好きなことを始めようとするだろう。しかし、我慢して好きなことをやってこなかった人生に大きな挫折と、終焉と思えるような困難が降りかかってきたとき、いったい何を頼りに立ち向かうのか。

 今の若者があまり一生懸命頑張らなくなってきたことの要因も彼らなりに大人を観てきてそこにあるのではないかと。

(勝手なことを書いてしまい誠に申し訳ないが、私の誤解があれば一報戴ければありがたく訂正いたします。)


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